ウィリアムズ ガーデン
2019年7月21日、参議院議員選挙の投票を済ませて、越生から八高線、高崎から上越線で沼田へ。沼田駅からロックハート城前までは路線バスで20分ぐらいなのだが、なんせ2時間に1本ぐらいしか便数がない。あらかじめ沼田駅前の喫茶店でゆったりと昼食をとる計画をたてた。
スコットランドから移築・復元されたというロックハート城にやってきた。見た目は確かに古城である。だがロックハート家は地元の名家ではあるようだが、国王のような権力者ではない。しかも建築されたのは産業革命以後の近代になってからである。城郭でもなく、宮殿でもなく、城郭風の大邸宅なのだろう。
それでも一度は来てみたいと思ったのは、単純にヨーロッパの雰囲気を感じられるのではないかと思ったからである。少しだけ本物に近い、こだわりを持った小規模なテーマパークなのだ。
ウィリアムズ・ガーデン
入場すると、すぐにウィリアムズ・ガーデンの入り口が目に入ってきた。ウィリアムズ・ガーデンは、開設25周年を記念して2018年4月にオープンしたヨーロッパ迷宮庭園である。
もともとのロックハート城の敷地内には馬が放牧され、ゴルフのグランドまであったようだ。そこには美しく整えられた庭園があり、フランス様式を取り入れた迷路も設けられていた。ウィリアムズ・ガーデンは、それを再現しようとしたのだろう。
ウィリアムズ・ガーデンは、ロックハート城を建設したウィリアム・ロックハートの名前をとったのだなと思ったが、公式のウェブサイトによれば、ロックハート城の庭園を設計した建築家がウィリアム・バーン氏であり、さらにはロックハート家の始祖もウィリアムだったという事実も合わせての命名だそうだ。そう、ウィリアムばかりなのだ。
ウィリアムと聞いて、私はウィリアム・キャズロン1世を思い出した。『西洋活字の歴史 グーテンベルクからウィリアム・モリスへ』(スタン・ナイト著、高宮利行監修、安形麻理訳、慶應義塾大学出版会、2014年)では「バロック活字」に分類されているが、一般的には「オールド・ローマン体」と言われている。
1730年までにキャズロンは「大部分の競争相手を凌駕していた」(ウィリアム・ゲット『回顧録』)。彼の活字の質が非常に高かったので、これ以降イギリスはオランダからの輸入活字に一切頼らなくなった。有名な1734年のキャズロンの活字見本帳にはあらゆる種類の活字(ローマン体とイタリック体それぞれ14サイズ、2種のゴシック体、3種のヘブライ語、4種のギリシャ語、6種のラテン文字以外の活字)が載っている。
一世紀後の1839年にチャールズ・ウィッティンガムは叔父からチジック・プレスの経営を受け継いだ。彼は古いキャズロン活字のケース数個を見つけ、おそらく出版者ウィリアム・ピッカリングの提案を受け入れ、同年に印刷した5点の標題紙にその活字を使った。ウィッティンガムは新しく鋳造したキャズロン活字を1844年と1845年の特別な本に使うことを決めた。
ガーデン・エントランスの1829年と年号のある石造物は、ロックハート家の紋章である。庭園内は、多くの家族連れやカップルが散策していた。ロックハート城の城壁を背景に写真を撮っている人もいる。
園路に従い、緑のトンネル、花の小径、緑の迷路をめぐる。オークの森、湿地の池から緑のラビリンス(迷宮)へと写真を撮りながら散策。ガゼボもある。中央にあるのが緑のラビリンス。そしてアヒルが泳いでいる水辺の庭の周囲には、天然石灰岩(コッツウォルズ・ストーン)が積み上げられている。
セントローレンス・チャーチ
ハートバザール(土産物屋)を通り抜けると、高さ20メートルのスプリングベルがある。さらに恋人の泉から階段を上ったところに、セントローレンス教会がある。
公式ウェブサイトによれば、ウィリアム・ロックハートの弟であるローレンス・ロックハートにちなんで命名したそうだ。ローレンス・ロックハートは、神学博士であり牧師でもあった。
ロックハート城が移築されるための解体作業中に、現地で教会の石造物が発見されたという。セントローレンス教会は、当時の城主専用礼拝堂を忠実に再現したそうだ。
礼拝堂の中までは足を踏み入れることはできなかったが、入り口のところからのぞき見ることはできた。教会内部には18世紀のアンティーク・ステンドグラスが嵌めこまれている。
18世紀の活字では、ジョン・バスカヴィルの名前が挙げられる。『西洋活字の歴史』では「ネオクラシカル活字」に分類されている。一般的には「トランジショナル・ローマン体」と呼ばれている。
ジョン・バスカヴィルが印刷の実験を始めたのは44歳になってからのことだが、彼の印刷と活字デザインの質の高さは驚異的であり、特にフランスとイタリアのタイポグラフィに与えた影響は計り知れない。彼は独学のアマチュア印刷業者であったが、完璧さの追求においては時間も費用も惜しまなかった。
バスカヴィルの活字書体は独特である。彼は「私の活字は他を真似たもの(の一つ)ではなく、私自身のアイデアによって形作られた」と主張した。バスカヴィルの活字は、かつて「トランジショナル」として知られていた様式の本質をはっきり示している。
この教会で結婚式を挙げる人も多い。ウエディング・サロンも併設されている。披露宴には、ゴージャスな「スクーン」、カジュアルな「タリスマン」という二つのバンケットルームがある。今回は行かなかったが、世界のウエディングドレスを集めた「ウエディング・ドレス・ギャラリー」もあるようだ。
ロックハート・キャッスル
セントローレンス教会の前からロックハート城を見上げる。前庭ではロックハート城をバックに、写真撮影しているグループを見かける。ドレス姿の女性が多いが、タキシード姿の男性もいる。子供たち、ペットも着飾っている。ロックハート城3階に、そういう体験コースの受付があるのだ。
1829年に建築されたというロックハート城に入る。1階左手の「ロックハート・ヒストリー」の部屋を見学。1762年にハプスブルグ家より授けられた勅許状などが雑然と展示されている。
大理石の階段を上って、「世界の城ライブラリー」の部屋へ。ロックハート家ゆかりの文豪サー・ウォルター・スコットの初版本や、城に関する書物が1000冊ぐらい収められているという。
19世紀のスコットランドと聞いて、まず思いうかべるのは「スコッチ・ローマン」であろう。『西洋活字の歴史』では、リチャード・オースティンの名前を挙げている。「19世紀の活字」に分類されているが「モダン・ローマン体」とされることもある。
19世紀の印刷業界では、ディドやボドニの急進的な活字デザインの結果、彼らの「モダン」様式が規範となっていた。しかし、オースティンがスコットランドの二つの鋳造所のために彫った新しい活字は、意図的に、それほど厳格ではなくもっと実用的に作られていた。
オースティンの活字は、エディンバラのウィルソン家&シンクレア社から、サミュエル・ディキンソン鋳造所経由でアメリカに輸入された。ディキンソンは1847年の見本帳にその活字を載せ、「スコットランド活字」の品質、耐久性、低廉さを賞賛している。こうしてオースティンの活字から派生した活字は、スコッチ・ローマンとして知られるようになった。
最後に、大理石村のもともとの施設であるストーン・アカデミーとストーン・ギャラリーを見学。ストーン・ショップで、路線バスの時間が来るのを待つことにした。
日本の中のヨーロッパ
セントローレンス・チャーチ
ロックハート・キャッスル