ふでづかい
 国光社活字の和字書体は毛筆の筆遣いをおさえ、活字書体として整理がすすんでいます。動的で変化に富んだ筆遣いは、「いぶき・ひのもと体」の特質だと思います。一字一字は平明であり、これといった特徴のある文字はありませんが、全体的にゆったりとおおらかな雰囲気があります。

まとめかた
 国光社活字の和字書体は、もともと楷書体の漢字と組みあわされています。それでも東京築地活版製造所の明朝体と組みあわされている和字書体と同じように、ボディを意識した組み立てになっているような印象があります。

ならびかた
 ベタ組みを基本に設計しています。宋朝体や清朝体(楷書体)との混植を考慮し、やや小さめの字面に設定しました。

国光社
 西澤之助(1848-1929)は安芸国豊田郡戸野村で生まれた。広島で国学および漢学を修めたのち、明治8年から明治20年まで全国を周遊し国民精神の鼓吹に従事したという。1888年(明治21年)に国光社を創立した。国光社は、伝統的な女子教育の雑誌 『女鑑』 などで一定の地歩を占めた。『女鑑』は1891年(明治24年)に創刊された雑誌である。家庭における女子の知育と徳育を啓蒙する女大学主義をかかげている。

 原資料は、広島大学付属図書館所蔵の『尋常小學國語讀本 修正四版』巻五—巻八(西澤之助編、副島種臣・東久邇通禧閲、国光社、1901年)の電子複写物です。発行は株式会社国光社です。
 国光社活字は毛筆のふでづかいを色濃く残していますが、それを活字書体として昇華させ、おおらかで伸びやかなふでづかいになっています。吉田晩稼が揮毫したといわれ、教科書にもちいられているのですが、その書風は「いぶき・ひのもと体」にちかいとおもわれます。
 吉田晩稼(1830-1907)は長崎市興善町に生まれました。高島秋帆(1798-1866)に師事して兵学をおさめました。さらに維新のさいには山県有朋(1838-1922)にしたがって奮迅の活躍をしました。維新後には兵部省権大録に任じられましたが早々に官僚を退いて書作活動に専念し、書家として名をあげました。本木昌造の懇願によって新街私塾で塾生に教えたこともあるそうです。
 碑文の揮毫も多く依頼されており、靖国神社の石碑をはじめ谷中墓地の平野富二墓標などおおくの碑文に筆をとっています。また大阪の四天王寺に本木昌造の銅像を建設するのにあたり、その碑文を揮毫したのも吉田晩稼でした。


■組み見本

 カタカナも完成度が高く、ひらがなと同じように全体的な大きさ、結構などを修整したのみです。修整をほどこした大きなところは、「キ」の角度をたてたことぐらいです。

漢字書体は、
 左:蛍雪
 中:金陵
 右:龍爪

『命もいらず名もいらず 上 幕末編』
(山本兼一著、NHK出版、2010年)

『字音假字用格』は漢字カタカナ交じり文なので、カタカナはだいたい揃えることができました。「ネ」「ヰ」「マ」がありませんでしたので、書風をつかんだ上で新たに書き起こしました。
 そのほかの文字で大きく形姿を整えたのはありません。全体的に統一感を醸しだすように筆づかいや形姿を整えていきました。
『字音假字用格』は漢字カタカナ交じり文なので、カタカナはだいたい揃えることができました。「ネ」「ヰ」「マ」がありませんでしたので、書風をつかんだ上で新たに書き起こしました。
 そのほかの文字で大きく形姿を整えたのはありません。全体的に統一感を醸しだすように筆づかいや形姿を整えていきました。

 ひらがなの「ち」「つ」「り」などは鋭くはらっているようにも思えますが、全体のイメージがゆったりとしているので、「あ」「め」にみられるように少し巻き込むようにしました。
 一字一字の完成度は高く、大きさ、太さ、姿勢、寄り引きなどを見直したほかは、とりたてて検討しなければならない文字はありませんでした。修整をほどこした大きなところは、「う」のふところを広くしたことと「お」の脈絡線を削除したことぐらいです。

 こちらに組み見本があります。

■ファミリー展開