●ふでづかい
『槙舎落合大人之碑』は、阪正臣の揮毫したものを忠実に彫ったものと思われます。したがってこの碑は毛筆の筆遣いが鮮明に感じられます。この書体は平安古筆の研究によるとはいえ、平安時代の素直な書風ということではなく、行書体にあわせたように思えます。少なくとも御家流のうねりが感じられる書風ではありません。
●まとめかた
『槙舎落合大人之碑』は、もともと行書体の漢字と組みあわせており、一字ずつが孤立した組み立てになっています。したがって連綿はありません。やや側筆で、中心軸が少し右に傾いているようです。
●ならびかた
字間は均等です。おそらく石面にじかに筆で字を書いて彫る方法で書かれたのではないかと思います。
阪正臣(1855-1931)
阪正臣は愛知県知多郡横須賀町(現在の東海市)に生まれ、愛宕神社の神官だった坂広雄に養育された。19歳のとき三河国一宮砥鹿神社の権禰宜に任じられる。のちに鎌倉宮・伊勢神宮に奉仕。
26歳になって新聞記者に転じ、30歳で宮内省御歌所寄人、同主事を歴任。のち華族女学校教官にも任じられ、多年にわたって皇族や貴族に歌ならびに書を教授した。
御歌所とは歌会始などの宮中の和歌に関することを扱うために宮内庁に置かれた部局で、多くの歌人が在任しています。
原資料は「槙舎落合大人之碑」(1891年頃 雑司が谷霊園1種4B号3側)の乾式拓本です。この拓本によってひらがなのキャラクターはだいたい揃えることができました。
全国には多くの墓碑があるにもかかわらず、ひらがなを含む完全碑はほとんど見ることがありません。数少ない例が落合直澄(1840-1891)の顕彰碑である「槙舎落合大人之碑」です。落合直澄は国学者・落合直亮の弟です。国語学者として著名な落合直文は落合直亮の養子です。直澄は明治になってから皇典講究所講師をつとめています。
この碑の篆額は枢密顧問官・佐々木高行(1830-1910)が揮毫しています。撰文は東京帝国大学文科大学教授・子中村清矩(1821-1894)によるもので、その書写は華族女学校教科事業嘱託・阪正臣の手になります。
明治政府は神道の布教に力を入れていましたが、そのためには皇典の研究と教育の必要性があったのです。国家神道の体制をつくっていくうえで神職の養成は重要な課題となりました。皇典講究所では内務省の意向をうけて神職の養成にあたることになりました。
■組み見本
カタカナはほとんどありませんので、あらたに制作するほかありません。ひらがなのイメージにあわせて、新たに制作することにしました。
筆記体にも傾斜しているものがあり、それが縦組みでも視線がスムーズに流れることがわかりました。最終筆のつながり線が、いちばん頭を悩ませたことでした。
漢字書体は、
左:金陵
中:開成
右:花信
準備中
もともと行書体の漢字と組みあわせており、一字ずつが孤立した組み立てになっています。したがって連綿はありません。
この書体では文字の基幹と一体化してはらっている「な」「ま」「よ」「ふ」「へ」などはオリジナルのまま残し、筆の勢いではねている「え」「さ」「せ」ね」などのつながり線は削除することにしました。