●ふでづかい
平安時代の素直な書風とはことなり、うねりが感じられます。とくに「み」「や」の水平に近い線はSを寝かせたような、くねくねとした筆遣いがはっきりとみられます。全体的に必要以上に大きなうちこみがみられます。これも筆遣いをくねくねとしたものとして特徴づける点です。連綿になると緩和されるところでしょうが、孤立した活字書体では「癖」のように感じます。
●まとめかた
平安時代の書風にみられる流麗さではなく、全体的にまるみを帯びています。活字書体として文字列をなした場合にはっきりとしてきます。これは緩急の少ない筆遣いによるものだと思われます。「り」は縦長方形、「つ」は横長方形ではありますが、より正方形にちかいようです。大きさも揃えられています。
●ならびかた
連綿のような効果は期待できないようです。なにか正方形に近づけなければならないという呪縛があったのかもしれません。
池原香穉(1830-1884)
池原香穉は長崎の池原香祗の二男として生まれた。実兄の池原枳園は書家として知られる。池原は、儒学者で書家の仁科白谷(1791-1845)、国学者で眼科医の上田及淵(1819-1879)に師事した。また商工業を奨励したという。池原は26歳で眼科医を開業、本木昌造とは長崎の歌壇の仲間だった。薩摩藩の重野安繹が上海より輸入した活字と印刷機を本木昌造に紹介したという。
池原は1876年(明治9年)に宮内省文学御用掛に任ぜられ、『美登毛能数』を記している。
本木昌造(1824-1875)は、11歳のとき本木昌左衛門のもとへ養子に出されました。本木家は平戸のポルトガル通詞に始まるオランダ通詞の家系でした。1869年に長崎製鉄所附属活版伝習所を設立しました。1870年には新街新塾を設立し、その一事業として新街活版製造所を併設しました。大阪に支所を作り(後の大阪活版所)、東京に長崎新塾出張活版製造所を設立させました。
平野富二(1846-1892)は、平野家に養子として入っています。1861年に長崎製鉄所機関手見習を仰せ付けられ、本木昌造に師事してチャーチル号機関手、1869年に長崎製鉄所兼小菅造船所長となりました。本木昌造の依嘱により、1872年に東京で長崎新塾出張活版製造所を設立、活字版印刷の企業としてのスタートをきりました。
長崎新塾出張活版製造所は平野活版製造所を経て、東京築地活版製造所へと大きく発展し、日本文化に貢献することになります。
なお、原資料は『BOOK OF SPECIMENS』(平野活版製造所、1877年、平野ホール所蔵)の15ページに掲載されている第三號活字のカタカナおよびひらがなです。
■組み見本
カタカナは、おおむねベースにした活字書体を踏襲しましたが、「ネ」(子)と「ヰ」(井)は字体が異なっているので新たに制作しました。
漢字書体は、
左:金陵
中:龍爪
右:志安
「特別展 埋もれた創業の記憶 今井焼」フライヤー 財団法人岩田洗心館
ひらがなは、「こ」「ゆ」「き」「ね」が現在の字体とは異なっていました。
この書体の特徴となっている大きいうちこみですが、再生にあたっては、やや抑えることにしました。
とくに「い」の右線、「お」の最終線は癖が強すぎるようなので、自然な筆遣いになるように改めました。そのほかのキャラクターも、一般的なイメージからすると違和感があるところのないようにしました。
それでも、この書体の特徴は継承されました。それだけオリジナルのもつパワーが強烈だといえます。