ふでづかい
 つながり(脈絡)が極めて少ないようです。さらには「まわし」もおおらかなカーブで描かれています。そのために現代的なイメージがあると受けとめられます。

まとめかた
「あ」「の」「め」などのように正円に内接する文字が多くあります。それぞれのキャラクターがのびやかにまとめられています。カタカナは、ひらがなにくらべてかなりこぶりにつくられています。

ならびかた
 ベタ組みを基本に設計していますが、原資料より字面を少し小さくしました。

興国印刷株式会社
三田徳太郎(1886-1961)は、1908年(明治41年)1月に「三田製本所」を設立。
のちに「三田活版製本所」となり印刷業務もおこなうようになった。
 1924年(大正3年)には新しい工場と店舗を新築し「三田印刷所」の操業を開始。1946年(昭和21年)12月、徳太郎は個人経営だった「三田印刷所」を法人組織に改組し、「興国印刷株式会社」を発足させた。
 このころ北海道に出版ブームがおとずれるが、なかでも興国印刷は業界屈指の活動をしている。

 原資料は『新考北海道史』(奥山亮著、北方書院、1950年)の「序」と「まえがき」でもちいられた和字書体です。
 太平洋戦争後の1946年(昭和21年)から1950年(昭和25年)までの約4年間、北海道では札幌市を中心として出版ブームがおこりました。このときに札幌市をはじめとする北海道各地で刊行された文芸書や教養書を「札幌版」といいます。このブームは戦時中から終戦までの全国的な出版事情によるものでした。短期間ではありましたが北海道の印刷会社に好景気をもたらしました。
 北海道内の新興出版社も多数設立され、活発な出版活動を開始しました。とりわけ尚古堂書店の経営者・代田茂(1897-1954)は、戦後の札幌を中心とする出版ブームにおいて、すぐれた出版企画の能力を発揮しています。
 代田による北日本社および北方書院の出版物は、推定30点あまり刊行されています。その出版物は、語学実用書、児童文芸、スポーツ、郷土史関連など多方面におよんでいます。


■組み見本

 カタカナは外来語の表記に限られるために、「序」と「まえがき」からは半分程度しか抽出できませんでした。本文中の引用部分などを参考にしてなんとか全キャラクターを制作しました。
 カタカナはひらがなにくらべて少し小さいと感じられますが、実際に印刷物の文章でみると、このぐらいのほうがひきしまってみえます。そういった理由から、オリジナルの考え方を尊重し、そのままの比率としました。

漢字書体は、
 左:宝玉
 中:聚珍
 右:武英

準備中

『字音假字用格』は漢字カタカナ交じり文なので、カタカナはだいたい揃えることができました。「ネ」「ヰ」「マ」がありませんでしたので、書風をつかんだ上で新たに書き起こしました。
 そのほかの文字で大きく形姿を整えたのはありません。全体的に統一感を醸しだすように筆づかいや形姿を整えていきました。
『字音假字用格』は漢字カタカナ交じり文なので、カタカナはだいたい揃えることができました。「ネ」「ヰ」「マ」がありませんでしたので、書風をつかんだ上で新たに書き起こしました。
 そのほかの文字で大きく形姿を整えたのはありません。全体的に統一感を醸しだすように筆づかいや形姿を整えていきました。

『新考北海道史』の「序」と「まえがき」は数ページだけしかありませんでしたが、ひらがなはほとんどのキャラクターを抽出することができました。
 抽出された文字は、何度もくりかえし使用されたために活字の摩耗が激しく、さらには印刷用紙の紙質が悪いために不鮮明でもありました。とくに「あ」「う」「ち」「ら」「り」「ろ」「わ」などのはらいが短くなっているようでした。また「き」「な」「ね」「ゆ」「ら」などのつながりも途切れていました。
 はらいは「つ」「の」などの長さにあわせ、「さ」「や」などに合わせて線をつなげるようにしました。これらは印刷物を検証することによっても確認できました。これによって、もともとのひらがなの伸びやかさが再現できたと思います。