第5回 オールド・ローマン体
【A】イタリア──ベンボ
1 フランチェスコ・グリフォ(1450?―1518?)
アルダス・マヌティウス(1449―1515)の工房の建物はヴェネチアに残されており、壁面にはアルダスの事跡をしるしたプレートが付けられている。この工房において、多数のギリシャ・ローマ時代の古典文学を出版した。
ビエトロ・ベンボ(1470―1547)の著作『デ・エトナ』(1495―96)に使われた活字書体こそ、オールド・ローマン体の成立を決定づけるものだった。この活字書体は活字父型彫刻師フランチェスコ・グリフォ(1450?―1518?)の手になるもので、ヴェネチアン・ローマン体にみられる個人的な書風が抑制されている。
フランチェスコ・コロンナ(1433―1527)の著作『ポリフィラスの夢』(1499)の製作もアルダス工房で請け負っている。この書物では『デ・エトナ』に使われた活字を改刻して、大文字がより威厳を増している。
これらの活字書体は、すぐに印刷人に影響を及ぼしたものではなかったが、のちにフランスに渡ってその価値が評価されて、オールド・ローマン体の地位が確立していくことになる。
2 ジョヴァンニ・マーダーシュタイク(1892―1977)
二〇世紀に入って、スタンリー・モリスン(1889―1967)がアルダス工房の活字を見いだす。1923年に『ポリフィラスの夢』に使われた活字を「ポリフィラス」として復刻した。つづいて『デ・エトナ』に使われた活字を、その著作者の名を冠して「ベンボ」として復刻する。
さらにモリスンは、ヴェローナのジョヴァンニ・マーダーシュタイク(1892―1977)にもちかけて『デ・エトナ』の活字のさらなる復刻を要請した。マーダーシュタイクは1939年に「グリフォ」と名づけられた書体を制作する。
マーダーシュタイクは1946年から56年までの10年をかけて、フランチェスコ・グリフォがアルダス工房を去ってからの活字をもとにして新刻している。これはボッカッチョ著『ダンテ頌』に使用されたのにちなんで「ダンテ」と名づけられている。
【B】フランス──ギャラモン
1 クロード・ギャラモン(?―1561)
人文主義者のジョフロア・トリィ(1480―1533)はアルダス工房の古典文学の書物に注目し、それらにもちいられていた活字の研究をクロード・ギャラモンにすすめたのである。
ギャラモンは、印刷人シモン・ド・コリーヌ(1470?―1546)らとともにこれらの活字を分析して、フランス語に適するように試行錯誤を重ねていった。完成したギャラモンの活字は、コリーヌの義理の息子ロベール・エティエンヌ(1503―59)によって印刷された『ミラノ君主ヴィスコンティ家列伝』(1549)など、パリの印刷人によって多くの書物にもちいられた。
2 エゲノルフとバーナー活字鋳造所・プランタン活字鋳造所
ギャラモンの工房は、印刷所から独立した活字製作専門の工房だった。ギャラモンの死後、その活字父型や母型は売却されて各地に分散していった。
ひとつはドイツ・フランクフルトのクリスチャン・エゲノルフ(1502―1555)の活字鋳造所である。この活字鋳造所はエゲノルフの孫娘と結婚したヤコブ・サボン(?―1580)に継承され、サボンの死後に未亡人となったエゲノルフの孫娘と再婚したコンラッド・バーナーに引き継がれた。1592年には『エゲノルフとバーナー活字鋳造所の見本帳』が発行されている。この見本帳が「ギャラモン」の復刻のもとになったもので、1924年にドイツ・ステンペル活字鋳造所が最初に手がけた。
もうひとつはネーデルランド・アントワープのクリストファ・プランタン(1520?―89)の印刷所に売却したルートである。プランタン印刷所は『多国語対照聖書』(1568―73)で知られ、現在は「プランタン・モレトゥス博物館」として一般公開されている。アドビ・システムズの「ギャラモン」(1989)は、プランタン・モレトゥス博物館に残されたギャラモンの活字を詳細に調査したとされる。
3 ジャン・ジャノン(1580―1658)
スイス生まれの印刷人ジャン・ジャノンは、1612年にフランス・スダンで、フランスでははじめてとされる書体見本帳を発行している。これに掲載された書体はギャラモンの活字をもとにしてはいるが、むしろ17世紀という時代に求められて設計したものだった。
このジャノンの活字書体は、スダン・アカデミーの出版物に公式書体として使用された。のちに宗教上の理由によって、フランス王立印刷局に没収されてしまった。フランス王立印刷局の所有となったことで、ギャラモンの活字であるとの誤解が生じてしまったのである。
フランス王立印刷局のジャノンの活字書体は、20世紀になって「ギャラモン」と混同されたまま復刻されている。1917年のアメリカ活字鋳造会社(ATF)の「ギャラモン」にはじまり、他の活字メーカーがこれに追従した。
【C】オランダ──ファン・ダイク
1 クリストフェル・ファン・ダイク(1601―69)
17世紀のオランダを代表する活字父型彫刻師としてクリストフェル・ファン・ダイクがいる。ファン・ダイクは、当時最高水準にあったアントワープのプランタン印刷所で、ギャラモン活字をしっかりと研究していたと推測される。したがってフランチェスコ・グリフォからクロード・ギャラモンに継承されたオールド・ローマン体の流れを、ファン・ダイクが間接的にうけついだといえる。
ファン・ダイクの活字は、その死後に活字鋳造所の資産を落札したダニエル・エルゼヴェルの未亡人によって発行された活字書体見本帳(1681年3月発行)によって、ひろく紹介されることとなった。
ダニエル・エルゼヴェルの未亡人は、ファン・ダイクの活字をふくむ活字鋳造設備一式を1683年5月に、アムステルダムの印刷者エセフ・アシアスに売却した。その後も売却がくりかえされるが、結果的にはハーレムのエンスヘデ活字鋳造所にファン・ダイクの活字のすべてが伝わったのである。
なおファン・ダイクを筆頭とするオランダのオールド・ローマン体は、独特の黒みや骨格の頑丈さをもっているために、現在では「ダッチ・オールド・ローマン」と呼ばれている。
2 ヤン・ファン・クリンペン(1892―1958)
ハーレムのエンスヘデ活字鋳造所は19世紀には沈滞していたが、1920年代になると、ヤン・ファン・クリンペンという傑出したタイポグラファの登場によって、一気に活気をとりもどした。
クリンペンが最初に設計した活字書体が「ルテツィア」で、父型彫刻師P・H・レディシュによって具現化された。この書体はモノタイプ社のスタンリー・モリスンによって注目された。
スタンリー・モリスンは、ファン・ダイクの活字を復刻するという企画にあたり、クリンペンにアドバイザーを頼んだ。クリンペンのアドバイスにより、機械による活字父型がモノタイプ社のスタッフの手でつくられた。こうして一九三五年に完成した復刻書体「ファン・ダイク」はオランダを代表する活字書体となった。
クリンペンは、ほかにもいくつかの活字書体を設計している。なかでも1952年に完成しエンスヘデ活字鋳造所から発売された「スペクトラム」は、1955年にはモノタイプ社からも発売されている。
【D】イギリス──キャズロン
1 ウィリアム・キャズロン(1692―1766)
オールド・ローマン体はイタリアで生まれ、優美なフランス活字、武骨なオランダ活字へと地域的な変化を遂げながら、ついにはイギリスに到着するのである。
ウィリアム・キャズロンは20歳代のなかばから独立し、製本師ジョン・ワッツと印刷者ウイリアム・ボイヤーの援助を得て活字製作をはじめた。わずか数ヵ月後には独自の地位を固めて、その活字鋳造所をイギリスで最大規模にしている。
当時のイギリスはオランダのローマン体が流行していた。キャズロン活字はアムステルダムの父型彫刻師ディルク・ヴォスケンスの活字をモデルにしたといわれるが、その武骨な特質を穏やかにして洗練さをくわえたことによって「イギリス風で快い」という称賛をえたのである。
1734年にキャズロンは枚葉の活字書体見本帳を発行、さらに1738年にその再版が出版された。1763年には製本された最初の活字書体見本帳がキャズロン活字鋳造所から発行されている。この見本帳がキャズロン最晩年の仕事になった。
2 チャールズ・ウィッティンガム(1795―1876)
18世紀のアメリカでは、活字書体はイギリスからつたわっていた。したがってキャズロン活字の改刻はアメリカの活字鋳造所でおこなわれたが、もはやキャズロン活字とは思えないほどアメリカ風に変化してしまっていた。
イギリスでは、その後キャズロン活字はしばらく人気が低落していたが、チャールズ・ウィッティンガムの個人印刷所チズウィック・プレスで、キャズロン活字の父型からあらためて母型をつくりなおして、その活字を使用した書物を1844年に印刷したことで、ふたたびキャズロン活字の人気が復活した。
キャズロン活字鋳造所は、1936年にイギリスのスティヴンスン・ブレイク社に買い取られてその長い歴史に幕をおろしている。
|