筆法
『欽定全唐詩』と『欽定全唐文』とはともに脈絡を感じさせない素直で端正な起筆・収筆です。掠法についても両者ともに同じような速度で、側法は柿の種のような形状で統一されています。躍法はどちらもシャープにはねあげていますが、どちらかといえば『欽定全唐詩』のほうがやや短めです。
 前者は少し抑揚のある印象ですが、後者は平板で均一な印象があります。大胆な言い方をすれば、前者は毛筆書写にちかく、後者は硬筆書写にちかいようです。

結法
『欽定全唐詩』は少し抑揚があり、『欽定全唐文』は平板で均一であるという印象は、結法ではさらに強く感じられるようです。『欽定全唐詩』から『欽定全唐文』への変化は、より均一化へと向かっていったようです。
すなわち、『欽定全唐詩』よりも『欽定全唐文』の方が抱懐をひろくとっています。前者が縦長の結構になっているのにたいし、後者は正方形にちかくなっています。このことから『欽定全唐詩』の方がすこし伸びやかになっています。

章法
もっとも大きい文字がおさまるようにボディを設定しました。縦並びで重心をそろえ、寄り引きのない文字列をつくるということは漢字書体すべてに共通することであり、木版印刷においても、活字組み版印刷においても変わるものではありません。


董誥(1740-1818)
董誥は字を雅倫、号を蔗林と称す。浙江省富陽の人で、董邦達(1699-1769)の子です。董誥は乾隆年間に進士に及第し、家学を継承。書画をよくして、乾隆帝に知遇を受けた。1771年(乾隆36年)に値南書房に入り、内閣学士に累進した。工部侍郎・戸部侍郎を歴任したのち、『四庫全書』編纂の副総裁をつとめ、また『満洲源流考』を編集した。1779年(乾隆44年)には軍機大臣に抜擢されました。1787年(乾隆52年)、戸部尚書に任ぜられた。

 

『欽定全唐文』(台北・匯文書局、1961年)のうち、「高祖皇帝」のページを資料としました。1814年(嘉慶19年)に発行された刊本の影印です。
康煕年間において武英殿刊本をしのぐ品質とされる地方官庁による官刻本として、曹寅が主管した揚州詩局で刊行されたものがあります。その代表的なものとして康煕帝の命により編纂された唐詩全集である『全唐詩』があげられます。
康煕から乾隆年間にかけて隆盛だった刊刻事業ですが、嘉慶年間にはいるとしだいに衰微をみせはじめました。そんななかで、一八一八年(嘉慶一九)には、嘉慶帝の敕命により董誥らが編纂した唐・五代散文の総集である『全唐文』が揚州詩局から刊行されています。
『欽定全唐文』は唐・五代散文の総集です。収められた作家の数は3,000人、作品数は20,000篇にのぼるそうです。皇帝から僧侶、諸外国人に至るまで、あらゆる階層のあらゆる作品を網羅しています。


■ファミリー展開

『日本の漢字1600年の歴史)』
(沖森卓也著、ベレ出版、2011年)

資料としたのは,書風が整っている「改元大赦詔」のページです。重複するキャラクターをのぞくと167字ありました。この167字をスキャンして、もっとも大きい文字がおさまるようにボディを設定しました。この文字を下敷きにして、アウトライン・データを作成します。
そのうえで、下敷きにした影印と見比べ、太さを揃えたり、大きさを揃えたりといった活字書体としての統一性をはかっていきます。もともと正方形に近く整えられた字様であったために、それほどの調整は必要ありませんでした。
この167字によって筆法・結法をしっかり把握して、つぎに書体見本字種12字を制作します。この12字のうち、最初に制作した167字に共通の扁や旁があるものはそれを転用します。
影印本には再現したページ以外のページがありましたので、この12字がほかのページに存在するものはそれを参考にし、存在しないものはそれぞれの部分を見つけて参考にしました。
このようにして書体見本を作成し、つづいて同様の方法によって代表漢字を作成します。さらに制作プロセスにはいっていきます。

『抜け参り薬草旅』
(出久根達郎著、河出書房新社、2008年)

『伊勢神宮の暗号』
(関裕二著、講談社+α文庫、2013年)

『日本再起動』
(渋澤健著、東洋経済新報社、2011年)