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宋朝体と明朝体のうつりかわり
漢字書体の歴史
第 1 回 文と字と──六書の形成

1 漢字誕生

[甲骨文]
甲骨文は、亀の甲や牛の骨に刻んだ文字です。商時代の人々は、日常の全ての行為と現象に対してまず占いをおこなったのです。そこにあらわれた「ひび割れの形」で神の返答を判断したそうです。その甲や骨には「いつ誰がどのようなことを占ったのか」を文字で刻みました。さらに王がそのひびを見て判断した吉凶の予測、結果として起こった出来事などを記したようです。東京・書道博物館所蔵の『甲骨大版』(商時代)は、日本国内で所蔵されている甲骨の中では最大のものだそうです。このように原形をとどめている大きなものは、たいへん少数だそうです。刀で掘った文字なので、筆画が直線的になっています。

[金文]
金文は、銅器に鋳こまれた銘文のことです。その銅器を製作した氏族の名や祖先神の名を表した簡単な銘文から、その銅器のいわれを述べた長文のものまであります。文字は、粘っこい曲線になっています。京都・藤井有鄰館所蔵の『小克鼎』(西周時代)があります。『小克鼎』は器の内側に8行72文字からなる銘文が鋳こまれています。「克という人が、応という人の命令によって成周(今の洛陽)に行き、八軍団の閲兵を行った記念として、祖父を祭ったこの鼎を作った」ということが述べられているということです。

[石鼓文]
唐初期に陝西省鳳翔府天興県で出土した10基の花崗岩の石碑(戦国時代)は石鼓せっことよばれる太鼓のような形の石で、そこに刻まれた文字を「石鼓文」といいます。現在は北京・故宮博物院に所蔵されています。この「石鼓文」は、現存する中国の石刻文字資料としては最古のものだそうです。狩猟を描写した詩が刻まれており、当時の狩猟をはじめとする王の暮らしがわかる文献だということです。また、始皇帝の文字統一以前に用いられた「大篆」のひとつであり、周王室の史官、史籀しちゅうの書いた文字として「籀文ちゅうぶん」ともよばれています。

2 六書

六書とは、漢字の成り立ちと使い方の基本的な原則で、象形・指事・会意・形声・転注・仮借という六種類があります。このうち、転注・仮借は、漢字の使い方に関する原則です。

[象形]
象形とは物の形を写して図形化することで、物の形をかたどった漢字の作り方です。「象形」には、日、月や、車などがあります。これらは、甲骨文字の字形が如実に表している。「日」は太陽を、「月」は半月を、そのものずばり絵画的に描いたものです。また、「車」は古代の戦車をかたどったものです。ほかに「木」「日」「月」「鳥」「魚」などがあります。

[指事]
指事は点画の組み合わせなどによって位置・数量などの抽象的な意味を直接に表しているものである。一・二・三・上・下・凸・凹などがあります。「一」などの数字は、具体的な事物はなく単なる線で表現しています。「上」と「下」は、ある基準線の上または下に何かものがあるということを示したものです。

[会意]
会意は二つ以上の漢字を組み合わせ、その意味を合成して独立した文字とするものです。例えば「日」と「月」を合わせて「明」、「人」と「言」を合わせて「信」、「木」を三つ合わせて「森」を作るように、その意味を合成して独立した文字とする方法です。

[形声]
形声は音声を表す文字と意味を表す文字を組み合わせて、新しい意味を表す漢字を作る方法です。「輪」や「銅」「草」を例にすれば、「侖」「同」「早」は本来持っている意味を機能させていなくて、単に発音を示すものとして使われているだけです。このように、音声を表す要素と意味を表す要素を組み合わせて新しい意味をあらわす漢字を作る方法です。
 漢字そのものの構成には階層化が行きわたっています。最も下位の階層として点画があり、点画の結合体が部品です。その一例として部首〈偏・旁・冠・脚・垂・構・繞〉があります。この会意・形声が、現在使われている漢字の大多数を占めています。すなわち、部首はもちろん、非部首においても要素として共通の部分が多いのです。

[転注]
転注は、ある漢字を原義に類似した他の意味に転用することです。この場合、音の変わることが多いようです。例えば、「音楽」の意の「楽(ガク)」の字を「ラク」と発音して「たのしい」の意に転用することです。

[仮借]
仮借とは、音はあるが当てるべき漢字のない語に対して、同音の既成の漢字を意味に関係なく転用するものです。食物を盛る高い脚の付いた器の意の「豆」の字を、穀物の「まめ」の意に用いるというようなことです。

3 文と字と

膨大な字数の漢字ですが、大きく分けると「文」「字」になります。「文」は、これ以上分解できない単体の文字、「字」は、「文」を組み合わせて作られた複体のものをさしています。最初に「文」が作られて、それを基にして「字」が作られたとされています。全部合わせて「文字」になります。ちなみに「名」は文字のふるい言いかたです。

[文(もん)とは]
「文」とは着物をかさねて胸元で襟がきれいにそろった象形で、「あや」すなわち、模様、飾りをあらわしています。単体の漢字「文」にあたるのが、象形と指事です。「象形」とは実際に目に見えるものの形を具体的に描いて、その事物を表現する漢字とする方法です。また「指事」は目には見えない抽象的な概念を暗示的に表現する漢字とする方法です。

[字とは]
「字」とは家の中で子供を養い育てる意味をあらわす形声で、生む、増えるということをあらわすようになりました。複体の漢字「字」にあたるのが、会意と形声です。これが活字書体設計における「作字合成法」のベースとなる考え方です。「会意」と「形声」の違いは、構成する要素が「会意」ではすべて意味を表すのに対し、「形声」ではどれかひとつが発音を示しているという点です。

第 2 回 五体の成立から活字書体へ

【篆書体】

中国・秦代(前二二一―前二〇七)には、始皇帝(前二五九―前二一〇)が字体の統一を重要な政策として取り上げ、古文(甲骨文・金石文)を基礎として篆書を制定し、これを公式書体としました。この書体を小篆と呼び、それ以前の古体を大篆と呼んで区別しています。篆書(小篆)は隷書と同様に筆の鋒先を逆に入れて画の中央を走りますが、隷書と違うのは円形を描くようにする転折の筆法です。特徴的なのは左肩の転折で、宀の場合、篆書では第一画と第二画を連続させて書く。右肩は筆の方向を転換させて回すように書きます。中心を重視して、中心から左側へ、右側へと書いていきます。泰山刻石(前二一九年)とは現存する始皇七刻石のひとつです。現在、原石は泰安博物館において厳重に保存されています。拓本としては十字本、二十九字本、五十三字本、百六十五字本の四種類が伝わっています。
  篆書体(石刻)『泰山刻石』   活字書体(試作)「泰山」

【隷書体】

中国・漢代(前202―220)には篆書が衰え、実用に便利な隷書が勢力をえました。隷書は秦代には補助的につかわれていましたが、漢の公式書体となりました。西漢(前202―8)では古隷と八分がともにつかわれましたが、東漢(25―220)では八分が発達して全盛期をむかえました。173年(熹平4)に東漢の霊帝が今まで伝えられた経書の標準のテキストを定めたのが「熹平石経」です。その書風は点画の太細の変化も波法の強調はなく書法芸術としては表情に乏しい書とされるかもしれませんが、正確で読みやすい書風は活字書体のル―ツのひとつであると思われます。「熹平石経」は幾多の争乱にあって破壊され四散しました。その中の「儀礼」の一石がわが国の藤井斉成会有鄰館所蔵の残石です。藤井斉成会有鄰館は、紡績業で財をなした藤井家の所蔵品を公開する場として設立されました。創立者の藤井善助(1873―1941)は、中国の美術骨董品のコレクターとしても知られています。
  隷書体(碑刻)『熹平石経』(173年)  活字書体「洛陽」

【行書体】

集王聖教序は、672年に碑刻され、長安(現在の西安)の弘福寺内に置かれました。いまは西安碑林にあります。三蔵法師玄奘の翻訳完成を記念して、僧・懐仁が当時伝わっていた王羲之の行書筆跡から一文字一文字集めて文をつくり、あたかも王羲之が書いたように配列したものです。字を集めてあるので、文字の大きさはばらつきがあり、やや気脈が通らないように見えますが、王羲之の行書の典範として中国書法史において至宝と言われます。太宗・李世民の序、高宗・李治による記、ならびに玄奘の翻訳になる般若心経から構成されています。
  行書体(碑刻)『集王聖教序碑』(672年 西安碑林博物館蔵)   活字書体「聖世」

【草書体】

『説文解字』の序文には、文字の歴史を説いて「漢興りて草書あり」としるされています。この言葉を裏づけたのが木簡の「陽朔三年」(前四五年)で、全体が草書で書かれています。楷書、行書よりもはやくに、草書が広く一般化したことを裏付けています。晋朝においても簡書や帛書が多くもちいられており、紙がひろく一般にも使われるようになったのは南北朝以降のことでした。晋時代の簡書や帛書に書かれたのは、隷書から草書に変わっていきました。中国・唐代(六一八―九〇七)においても草書はますます発展しており、独草体から連綿体、狂草体を生んでいます。懐素(生没年不詳)は中国・唐代の書道家・僧で、「草聖」ともいわれています。帛に書かれた『草書千字文』は懐素の最晩年のものです。一字には一金の価値があるということから「千金帖」ともいわれます。
  草書体(書写)『懐素草書千字文』(799年)   活字書体「詩草」

【真書体】

西安碑林博物館の第一展示室には高さ2mの『開成石経』の石碑が114基あります。開成石経は唐の文宗皇帝・李昴が命じ、830年(大和4)から837年(開成2)までに艾居晦ら写字生によって真書で刻まれたものです。開成年間に完成したので開成石経と名付けられました。石経とは、十三種の儒教経典、周易、尚書、儀礼、詩経、周礼、礼記、春秋左氏伝、春秋公羊伝、春秋殻梁伝、論語、孝経、爾雅、孟子のことです。当時この石経は長安城務本坊の中に置かれ、国子監の学生と科挙の受験者の勉強にもちいられました。
  真書体(碑刻)『開成石経』(837年 西安碑林博物館蔵)   活字書体「開成」

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[銘石体]

中国・晋代の墓誌にもちいられた隷書体をとくに「銘石体」といいます。銘石体の典型的な例が『王興之墓誌』(341)です。ここにあらわれた形象は、おそらくは刻による表現がすこし加えられているのかもしれませんが、現在のゴシック体にきわめて近い書風です。『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土しました。王興之は王羲之の従兄弟にあたります。この墓誌銘の裏面には、王興之の妻であった宋和之そうわしの墓誌すなわち『王興之妻宋和之墓誌』(348)が刻まれています。この他にも、王氏一族の王〓之、王丹虎のふたりの墓誌が出土しており、いずれも『王興之墓誌』と同じ書風です。 〓=門がまえのなかに虫
  隷書体(銘石体)「王興之墓誌」(341年)  活字書体「銘石」

[魏碑体]

魏晋南北朝とよばれる時代は、中国に仏教が広く伝播した時代でした。北魏でも漢民族の信仰している仏教を国教として採用しました。これにともない国内の仏教信仰が極めて盛んになり、多数の寺院や仏像が造営されることになりました。この動きに連動して生まれたのが、崖地に洞窟をうがって磨崖仏を彫り、石窟寺院を造営することでした。その場所として選ばれたのが洛陽の南にある龍門の崖地で、龍門石窟を造り上げることになったのです。磨崖仏には彫った動機や故人の冥福を祈る供養文、願い事を記した願文、そして年月や刻者の名前が文章として刻まれることがありました。これが「造像記」である。北魏真書体は、方筆の剛毅かつ雄渾な真書によるものですが、それぞれに特有の個性があり、その書風は千変万化です。書法芸術では、なぜか「六朝楷書」と呼んでいます。
  真書体(魏碑体)「長楽王丘穆陵亮夫人尉遅造像記」(495年)   活字書体(試作)「造像」

[経典体]

中国の印刷の初期において、仏教経典・儒教経典で用いられたのは荘厳で権威的なイメージのある肉太の真書体字様でした。とくに仏教経典の印刷は唐代から行われており、時代と地域を越えて、経典の形態、字様、版式に大きな変化はみられませんでした。わが国の「春日版」なども同様の字様であり、中国の仏教経典から覆刻を繰り返したものと思われます。
  真書体(経典体)『大方廣佛華巖経』(990―994年 龍興寺)   活字書体「方廣」

第 3 回 宋朝体 Sung-style type

宋朝体は、中国の宋代(960―1279)の木版印刷にあらわれた書体です。唐代に勃興した印刷事業が宋代に最高潮に達し、また唐代の能書家の書風は宋代の印刷書体として実を結びました。浙江、四川、福建が宋代における印刷事業の三大産地であり、それぞれが独自の宋朝体をうみだしました。

【浙江刊本】

浙江地方の刊本は、初唐の欧陽詢(557―641)書風による字様です。欧陽詢は、中国の唐代初期の書家です。潭州臨湘(湖南省)の人。字は信本。王羲之の書法を学び、楷書の規範をつくりました。初唐三大家のひとりで、高祖の勅命によって類書『芸文類聚げいもんるいじゆう』100巻を編集しました。楷書にもっともすぐれ、碑刻に『九成宮醴泉銘』などがあります。『姓解』は伝本の稀な北宋刊本の中の一つで、中国にも所在を見ない孤本です。中国古来の姓氏2568氏を、字体によって170部門に分けて配列し、姓の起源・著名人・掲載書をあげ、発音をしるす字書となっています。この『姓解』は宋から高麗王府を経て、わが国に舶載されたものとされます。後陽成天皇の侍医であった曲直瀬正琳まなせしょうりん(1565―1611)の旧蔵で、昌平黌に学び全権公使としてパリに駐在した向山黄村むこうやまこうそん(1826―1897)の手を経て国立国会図書館に寄贈されました。
  【浙江地方の刊本】『姓解』(1038―59年 国立国会図書館蔵)   活字書体「西湖」

【四川刊本】

四川地方の刊本は、中唐の顔真卿(709―785)書風による字様です。顔真卿は、中国の唐代の政治家で、書家としても知られています。長安(西安)の人。字は清臣。安史の乱で大功をたてました。のち反乱を起こした李希烈り・きれつの説得に派遣され、捕縛され殺されました。書は剛直な性格があふれる新風を拓き、『多宝塔碑』が代表作とされます。『周礼しゆらい』は中国の儒教教典のひとつですが、蜀(現在の四川省)の刊本は蜀大字本として名高いものです。孝宗(1162―88)のころの刊行と思われます。わずか二巻の残本ですが、同種の本はほかに知られていません。『周礼』は中国の儒教教典のひとつですが、蜀(現在の四川省)の刊本は蜀大字本として名高いものです。孝宗(1162―88)のころの刊行と思われます。わずか二巻の残本ですが、同種の本はほかに知られていません。清末の四大蔵書家のひとりとして知られている陸心源(1834―94)の遺書で、1907年(明治40)5月に静嘉堂文庫長だった重野安繹(1827―1910)が子息の陸樹藩と折衝して購入することになったなかの一冊です。
  【四川地方の刊本】『周礼』(1163―89年 静嘉堂文庫蔵)   活字書体「龍爪」   ……→詳しく

【福建刊本】

福建地方の刊本は、晩唐の柳公権(778―865)書風による字様です。柳公権は、中国の唐代の書家です。京兆華原の人。字は誠懸。柳公綽の弟にあたります。元和年間に進士に及第しました。碑刻の『玄秘塔碑』は柳公権六四歳時の楷書の代表作で、書法初学者の入門に最適の範本とされています。柳公権は王羲之を学んだ後に顔真卿を学んでおり、顔書の多くの筆法は柳書の中に見えますが、顔真卿以外に初唐書家の書風を吸収して骨のような力強さを増した自らの書体を形成したことから「顔筋柳骨」と称されています。『音註河上公老子道経』もそのひとつで、世界四大美術館のひとつと言われている台湾・国立故宮博物院が所蔵しています。
  【福建地方の刊本】『音註河上公老子道経』(1193―94年 台湾・国立故宮博物院蔵)   活字書体「麻沙」

【臨安書棚本】

南宋の時代(1127―1279)にはいると、臨安(現在の杭州)に都がおかれ、ますます書物の復興や印刷の隆盛をみました。とりわけ唐から北宋にかけての名家による詩文集や文学書の刊行が中心になっていきました。首都であった臨安城中の棚北大街には多くの書坊が建ち並んでいたといわれますが、そのなかでも陳起(生没年不詳)による陳宅書籍鋪が刊行した書物は注目をあび、「臨安書棚本」とは狭義にはこれを指すことになりました。陳宅書籍鋪では整然として硬質な字様を完成させましたが、この字様によって書写から独立した「工芸の文字」が誕生することになったのです。
  【臨安書棚本】『南宋羣賢小集』(1208―64年 陳宅書籍鋪)   活字書体「陳起」

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[近代の宋朝体活字]

1916年に、丁善之(三在)と丁輔之が聚珍倣宋版活字を制作し、丁輔之によって聚珍倣宋印書局が設立されました。聚珍倣宋印書局は一九二一年に中華書局に吸収合併され、そのさいに聚珍倣宋版活字の権利も中華書局に譲渡されました。『唐確慎公集』の前付けには「陸費逵 総勘」「高時顯 輯校」とならんで「丁輔之 監造」とあります。すなわち中華書局においてもなお活字製造もしくは印刷の監督として丁輔之の名前がしるされています。中華書局とは現代中国の代表的な出版社で、1912年に陸費逵(伯鴻)によって上海で設立された。聚珍倣宋版活字は臨安書棚本にみられる字様から発展したといわれています。聚珍倣宋版活字においては、臨安書棚本に比べると直線化がすすんでいますが、当時すでに普及していた近代明朝体活字の影響を受けたということかもしれません。
  【聚珍倣宋版】『唐確慎公集』(1921年 中華書局)   活字書体(試作)「七夕」

近代の宋朝体活字は浙江地方の印刷書体の系統で、陳起の陳宅書籍鋪による「臨安書棚本」を源流としています。上海・中華書局の聚珍倣宋版は、わが国では名古屋・津田三省堂らが導入して「宋朝体」とよばれました。ほかに上海・華豊制模鋳字所の真宋を大阪・森川龍文堂が導入した「龍宋体」などがあります。津田三省堂の宋朝体には縦横同じ幅の方宋体と縦に細長い長宋体がありましたが、長宋体の方が目新しい感じがあって、一般には喜ばれていたようです。

第 4 回 元朝体 Yuan-style type

明朝体や宋朝体は知られていますが、元朝体はあまりなじみのない名称です。楷書体系統の漢字書体は中国のそれぞれの王朝の時代をあらわす名称で呼ばれてきましたが、このうち元朝体は、わが国の活字はもちろんのこと、中国の活字にも存在していません。もちろん元朝体も刊本字様として存在します。中国・元代(1271―1368)は漢民族圧迫政策により書物の出版にはきびしい制限が加えられたが、それでも福建地方の民間出版社では多くの書物を刊行しています。その刊本字様は趙子昂(1254―1322)の書風によるとされる脈絡を残した書体で、これを中国では元体とよんでいます。わが国の言い方では元朝体です。ところが書誌学などでは「趙子昂体」「松雪体」と呼ばれることが多いそうです。

【元代の福建刊本】

宋代の福建地方の出版社では余仁仲の万巻堂が知られていますが、元代になると余志安の勤有書堂が有名になりました。この勤有書堂の刊本字様こそが典型的な元朝体です。『分類補註李太白詩』は趙子昂の書風である「松雪体」でかかれ、元時代の建安刊本の特徴がよくあらわれています。『分類補註李太白詩』の各巻頭にある「米沢蔵書」の印記は、米沢藩主上杉景勝の重臣で文武兼備の名将として知られる直江兼続かねつぐ(1560―1619)のものです。直江兼続は1607(慶長12)に『文選もんぜん』六一巻を木活字によって刊行しましたが、これは直江版として著名なものです。
  【元代の福建刊本】『分類補註李太白詩』(1310年 勤有書堂 天理図書館蔵)   活字書体「志安」

第 5 回 明朝体 Ming-style type

明朝体とは中国の明代(1368―1644)の木版印刷にあらわれた書体です。はじめは臨安書棚本の覆刻において筆画の直線化がすすみ表情のかたい書体があらわれました。1553年(嘉靖32)に刊刻された『墨子』においては、すでに明朝体の基礎が形成されていました。明朝後期の万暦年間(1573―1619)から刊本の数量が急速に増加し、製作の分業化が促進されました。

【南京国子監刊本】

国子監とは、中国・隋代以降の最高学府で、各王朝の都(長安・洛陽・開封・南京)など)に設けられました。唐代には国子監に長官の祭酒、次官の司業以下の官がありました。明代には南京と北京の二都に設けられました。南京国子監跡地は、現在は東南大学となっています。また北京国子監は現在、北京市東城区の国子監街にあり、その建築物は現在に至るまで残されています。 国子監で出版したもののうち、南京国子監が出版した刊本を南監本と呼びます。南監本の『南斉書』は、中国の二十一史のうちの南斉の正史で、現存するのは全59巻です。
  【南京国子監刊本】『南斉書』(1589年 南京国子監)   活字書体「金陵」

【楞厳寺刊本】

大蔵経とは、仏教の聖典を総集したものです。経蔵・律蔵・論蔵の三蔵を中心に、それらの注釈書を加えたものとされます。略して蔵経とも一切経ともいわれます。『大蔵経』は仏教の聖典を網羅する一大叢書であり、宋代以後国家的事業としてたびたび開版されました。明代の開版は、太祖の時に南京の南蔵、成祖の時に北京の北蔵、ついで武林蔵、嘉興蔵と四回なされましたが、このうち1589年(万暦17)から刊刻された嘉興蔵が一般に明版大蔵経といわれ、方冊型で見易いところから広く用いられました。宇治・黄檗宗萬福寺の『鉄眼版一切経』(1678)もこれを底本としています。
  【楞厳寺刊本】『嘉興蔵』(1589年 楞厳寺)   活字書体「嘉興」

【鄭藩刊本】

明代には、中央機関のほかに地方での官刻も盛んに行われた。皇子の身分で領地を分け与えられた各地の藩王は、政治的、軍事的に抑制された反面、豊かな経済条件を与えられていました。教育を重視したり、学問の追求を愛好する藩王は、刊刻事業に積極的でした。豊かな経済力と地方政府の権威によって優秀な文人や刊刻職人が招聘されたので、藩王府の刊行した書物は、原稿、校正、彫版、印刷などの品質が高かったようです。なかでも鄭藩世子朱載〓(しゅさいいく 1536―?)が刊行した音楽の著作『楽律全書』は、藩刻本の代表作のひとつだということができます。 〓=土+育 
  【鄭藩刊本】『楽律全書』(1595年 鄭藩)   活字書体「鳳翔」

【毛晋汲古閣刊本】

明末清初の代表的蔵書家であり刻書家であった毛晋(1599―1659)は、さまざまな版式と明朝体で書物をつくりました。ある時期には長体の明朝体を使用していましたが、もっとも世に知られているのは独特な書写の風格のある扁平な明朝体です。その明朝体の代表例が毛晋汲古閣『宋名家詞』です。この明朝体は、多くの蔵書家や刻書家に愛好されました。そしてこの扁平なデザインの明朝体を基本として、縦と横の筆画の対比がいっそう大きくなっていきました。こんにちの明朝体の原型があらわれることになったのです。
  【毛晋汲古閣刊本】『宋名家詞』(明朝末期 汲古閣)   活字書体「毛晋」

第 6 回 清朝体 Qing-style type 

中国・清代(1616―1912)の木版印刷にあらわれる書写系書写風の印刷書体を「清朝体」といいます。その字様は、文徴明(1470―1559)をはじめとする明代中期の書に影響された傾向があります。

【武英殿刊本】

中国・清代(1616―1912)の木版印刷にあらわれる書写系書写風の印刷書体を「清朝体」といいます。康煕年間(1662―1722)には紫禁城(現在の故宮)の西華門内の武英殿に編纂所が設けられました。初期の武英殿刊本においては、康煕帝の書のままを忠実に彫らせていたようです。その代表例が『御製文集』です。
武英殿刊本をしのぐ品質とされる地方官庁による官刻本がありました。曹寅(1658―1712)が主管した揚州詩局で刊行されたもので、代表的なものが康煕帝の命により編纂された唐詩全集である『全唐詩』(1707年)です。その書風は明代中期の文徴明(1470―1559)の影響がうかがえます。
  【武英殿刊本】『御製文集』(1711年 武英殿)   活字書体「熱河」

【揚州詩局刊本】

嘉慶帝(在位1795―1821)の敕命により、董誥らが編纂した唐・五代散文の総集である『欽定全唐文』が、1814年(嘉慶19)に揚州詩局から刊行されています。この『全唐文』の字様は、運筆が形式化されて活気がないと批評されましたが、むしろ均一に統一された表情は刊本字様としての機能をもっています。したがって『欽定全唐文』は清朝の官刻本としてのたかい品格に加えて、過渡期明朝体の基盤の上に発展された均一な書風、統一された表情の字様によって刊行され、機能性にすぐれるとともに、書写の運筆の視覚性も具備しているという特性があります。
  【揚州詩局刊本】『欽定全唐文』(1814年 揚州詩局)   活字書体「蛍雪」

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[近代の清朝体活字] ※わが国独自の清朝体活字とはことなります。

漢文正楷印書局は、中華書局の美術部主任だった鄭昶(1894―1952)が友人たちと1929年から準備し1932年に設立した会社です。もともとは漢文正楷字模活字を中華書局社長の陸費逵(伯鴻)に提案していましたが、婉曲に断られたといわれます。鄭昶は字を午昌、号を弱龕といいます。中華書局の美術部主任をつとめたのち、漢文正楷印書局の社長となり、漢文正楷字模の制作を主導しました。漢文正楷字模活字の版下を描いたのは、中華書局で鄭昶と同僚であった高雲〓(勝の力が土)である。高雲〓は中華書局で出す教科書の版下を描いていた人でした。彫刻は朱雲寿、許唐生、陸品生、鄭化生などが担当しました。また、この活字の鋳造は張漢雲の漢雲活字鋳造所が担当したそうです。漢文正楷字模活字の使用例として『高級小学校論語』(1935年 満州国文教部)があげられます。
  『論語』(1935年 満州国文教部)   活字書体(試作)「重陽」

揚州詩局で刊行された『全唐詩』の清朝体字様は、鄭昶らが設立した上海の漢文正楷印書局で制作された漢文正楷字模活字に引き継がれました。名古屋・津田三省堂で輸入した正楷書体は、もともとこの上海の漢文正楷印書局で制作された書体です。このように正楷書体は、漢文正楷印書局という社名からとられたものです。

第 7 回 過渡期明朝体

清朝の康煕帝から乾隆帝の時代の銅活字本、木活字本にあらわれた明朝体を「過渡期明朝体」ということにします。すなわち明朝以降の木版と清朝後期の鋳造活字の中間に位置し、ちょうど過渡期と思われる形象となっています。

【武英殿銅活字版】

清朝の雍正ようせい帝(1678―1735)の在位期間には、康煕帝の時代から編纂されていた『古今図書集成』(1726)が銅活字で刊行されました。もともとは康煕帝の時代の1719年に完成していましたが、皇位継承の紛争もあって刊行が遅れたようです。この『古今図書集成』にもちいられた銅活字については手彫りであったと思われますが、整然とした明朝体で、現代の明朝体にきわめてちかいものです。この活字は乾隆帝によって1744年に鋳つぶされたために、結局は『古今図書集成』でしか使われていません。
  【武英殿銅活字版】『古今図書集成』(1726年 武英殿)   活字書体「武英」

【武英殿聚珍版】

清朝におけるもっとも盛大な編纂計画は乾隆帝(在位1735―95)の時代に完成した写本の『四庫全書』です。さらに乾隆帝は『四庫全書』のなかから重要な書物を選んで、木活字で大量に印刷させました。刊行責任者の金簡が木活字による刊行を提案し、乾隆帝によって採用されたものです。武英殿の木活字で刊行された双書は『武英殿聚珍版双書』と称され、宮廷用の五部と一般販売用の三百部が刊行されました。金簡は、この木活字の製作と印刷作業の過程と経験をまとめて、詳細な文章と明瞭な挿し絵で『武英殿聚珍版程式』(1776)という印刷専門書を著しました。
  【武英殿聚珍版】『武英殿聚珍版双書』(1773年―1794年 武英殿)   活字書体「聚珍」

【萃文書屋活字本】

清代における木活字は『武英殿聚珍版双書』の影響で各地に浸透しました。そのひとつが1776年(乾隆56)に程偉元(?―1818)の萃文書屋によって刊行された『紅楼夢』です。『紅楼夢』は清代初期に成立した口語体長編小説で、原題を『石頭記』といいます。萃文書屋活字本の全120回のうち前80回は曹雪芹(1715―1762?)作、後40回は高鶚(1746?―1815)の作です。萃文書屋活字本には、1791年発行のいわゆる程甲本のほかに1792年発行のいわゆる程乙本がありますが、「引言」が加わったほか、大きな改訂が施されています。
  【萃文書屋活字本】『紅楼夢』程甲本(1791年 萃文書屋)   活字書体「寶玉」

第 8 回 清朝の刊刻書写体

ヨーロッパから写真石版印刷が書物の印刷に導入された清の光緒こうしよ帝(1871―1908)の時代には、からは、かならずしも彫刻しやすい明朝体でなくてもよくなり、本文に篆書体が使用された書物までもが登場しました。そのひとつに同文書局によって石版印刷で刊行された『篆文六経四書』のなかの『周易』があります。また、序文などには草書体もあらわれています。

【真書体】

書写を忠実に彫る写刻は宋朝の時代からありましたが、彫刻の困難さや可読性への配慮から、序文だけに限られてきました。したがって、この序文は熟練した彫工が担当していました。清朝の康煕帝は董其昌(1555―1636)の書を愛好していたために、民間出版においても、序文だけではなくて刊本全体にも書写系の字様が使用されるようになったと思われます。清代の私刻本の多くは手書きの文字が忠実に彫られた写刻本で、印刷もよく校正も厳密でした。とりわけ林佶によって刊行された『漁洋山人精華録』は精刻本とよばれて、その典雅な字様と細密な刊刻は、当時の蔵書家に愛好されました。
  真書体(刊刻)『漁洋山人精華録』(1700年)   活字書体「林佶」

【行書体】

清朝の康煕帝(在位1661―1722)は明朝後期の書家・董其昌(1555―1636)の書を、乾隆帝(在位1735―95)は元朝初期の書家・趙子昂(1254―1322)を愛好したために、それまでは序文に限られていた書写系の字様が、刊本全体にも使用されるようになりました。その傾向は民間の出版においても大きな影響を与えました。とくに北京の春暉堂が刊行した『菊譜』(1758)、春草堂が発行した『人参譜』(1758)には、流麗な行書がつかわれています。これらの書物にあらわれているのは刊本字様の行書であり、精密な運筆と厳密な筆画で構成されています。
  行書体(刊刻)『菊譜』(1758年)   活字書体「花信」

【隷書体】

牌記とは、古代書籍の扉あるいは巻末にある枠の付いている題識文字をさします。宋代以降の書籍刻印に広範に使われており、その字数は、数文字から百文字以上のものまであります。牌記の内容は、その書籍の刊刻年代、刊刻人、刊刻地、版本の伝承、底本の由来などが記述されています。集大成的な清代牌記資料集である『清代版刻牌記図録』には、清代の二千余種の古籍から精選された四千余幅にのぼる清代の牌記関係の図像が原寸大で影印収録されています。中国・同治年間(1862―74)に設立された官書局によって刊行された刊本は、おもに考証学と碑学の研究者によって主導されたので、文章の考証も厳格におこなわれたようです。その牌記には、碑文などに印された篆書や隷書が使用されています。『清代版刻牌記図録』所収の『河岳英霊集』には端正な隷書体が使われています。
  隷書体(刊刻)『河岳英霊集』(1878年)   活字書体「月光」

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[日本独自の書写体・御家流]

和様体とは中国から伝来した真書・行書・草書とはことなった日本固有の書体です。平安中期の藤原行成の子孫によって継承された書法の流派を「世尊寺流」といい、平安後期には藤原忠通を祖とする「法性寺流」、鎌倉末期からは尊円法親王の「青蓮院流」が広まりました。江戸時代になると青蓮院流は御家流と呼ばれて、調和のとれた実用の書として広く一般大衆に定着していきました。徳川幕府ははやくからこの御家流を幕府制定の公用書体とし、高札や制札、公文書にもちいるように定めました。さらに寺子屋の手本としても多く採用されたことで大衆化しました。御家流臨泉堂書による『御家千字文』(1814年 江戸書林)という書物がある。御家流のもっとも大きな特徴は、Sを横に寝かせたようなうねりをもっていることです。御家流から派生したのが、歌舞伎でもちいられる「勘亭流」です。
 御家流(刊刻)『御家千字文』(1814年 江戸書林)   活字書体「臨泉」

第 9 回 近代明朝体

近代明朝体活字は19世紀前半に上海や香港にあったロンドン伝道会と北米長老会によって製作されました。ロンドン伝道会の印刷所である上海・墨海書館と香港・英華書院で使用された活字は、ヨーロッパで活字母型が製造されたものだそうです。

【美華書館】

北米長老会の印刷所であった上海・美華書館びかしょかんにおいて木製種字と電鋳母型という活字製造法が考案されました。上海・美華書館の明朝体活字が長崎・崎陽新塾活字製造所にもたらされたのです。この活字をもとに活字母型を製造したのがわが国の明朝体活字のはじまりで、現在まで引き継がれているのです。
  美華書館『舊約全書』(1865年 美華書館)   活字書体「美華」

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[近代の明朝体活字]

商務印書館(Commercial Press)は1897年(光緒23)2月11日に、上海捷報館(China Gazette)の植字工だった夏瑞芳と鮑咸恩、上海美華書館ではたらいていた鮑咸昌と高鳳池が、北米長老会の牧師で当時の美華書館の責任者のジョージ・F・フィッチ(費啓鴻)の援助で設立した出版社です。1900年には日本人が経営していた修文書館の設備と技術を吸収し、1903年、日本の四大教科書会社のひとつ金港堂社長・原亮三郎が投資して日中合資となり、商務印書館の経営基盤は盤石なものになりました。日中合資後、商務印書館の編纂出版した小・中学校教科書では、日本側の意見が参考にされたといわれます。日中合資は1914年まで11年間続いた。中国の古典の編纂は商務印書館の重要な事業のひとつで、日本にしか存在していない資料をふくめて、叢書として刊行しました。
  商務印書館『中国古音学』(1930年 上海・商務印書館)   活字書体(試作)「上巳」

上海・美華書館の明朝体活字が長崎の崎陽新塾活字製造所にもたらされました。この活字をコピーして活字母型を製造したのがわが国の明朝体活字のはじまりで、これは東京築地活版製造所や正院印刷局(現在の国立印刷局)などに引き継がれました。のちに東京築地活版製造所では理想的な本文用明朝体を求めて、上海の中国人種字彫刻師に依頼しています。すなわち東京築地活版製造所の明朝体活字は中国で制作された種字によって築かれたものです。わが国の明朝体活字は、すべてが東京築地活版製造所のものを源としているといってよいでしょう。

第 10 回  欧字書体に影響されて日本で制作された漢字書体

呉竹体

【五號ゴチック形】

19世紀のドイツでは「ステイン・クリフト(石の文字)」と呼んでいたことから、サン・セリフ体の起源を古代ギリシアの石碑文とする意見もあります。サン・セリフ体が本格的に印刷用活字書体として使用されるのは1830年代で、キャズロン活字鋳造所では古代ギリシアを意味する「ドーリック(DORIC)」と呼んでいましたが、ヴィンセント・フィギンス(1766―1844)が1832年に「サン・セリフ(SANS-SERIF)」と名づけました。ウイリアム・ソローグッド(?―1877)は「グロテスク」と名づけ、アメリカでは1837年にボストン活字鋳造所が「ゴシック」といいました。『BOOK OF SPECIMENS』(1877年 平野活版製造所)には 、欧字書体として 「GOTHIC」が掲載されており、『 座右之友』(1895年、東京築地活版製造所)には漢字書体として「五號ゴチック形文字」があります。
 日本製漢字書体『座右之友』(1895 築地活版)   活字書体(試作)「伯林」  ※試作の過程

安智体

【五號アンチック形】

19世紀の産業革命以降に、商業目的のディスプレイ用の活字書体として「スラブ・セリフ体」が登場しました。まずヴィンセント・フィギンス(1766―1844)の「アンティーク(ANTIQUE)」が1815年に制作されました。ロバート・ソーン(1754―1820)によって準備されていた書体は「エジプシャン(EGYPTIAN)」と名づけられて、1820年に売りだされました。ロバート・ベズリによる「クラレンドン(CLARENDON)」は、1845年にイギリスのファン・ストリート活字鋳造所でうまれました。 『BOOK OF SPECIMENS』(1877年 平野活版製造所)には 、欧字書体として 「ANTIQUE」が掲載されています。それと同じ名称の漢字書体として、『 座右之友』(1895年、東京築地活版製造所)には「五號アンチック形文字」が掲載されています。
 日本製漢字書体『座右之友』(1895 築地活版)   活字書体(試作)「倫敦」  ※試作の過程

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装飾系漢字書体3種

【参號フワンテル形】

『参號明朝活字総数見本』(1928年 東京築地活版製造所)は、その名のとおり3号サイズの明朝活字の総数が掲載されていますが、「フワンテル形」の見本も掲載されています。漢字は25字のみの掲載で、その字種から年賀用活字としてつくられたもののようです。これが初出ではなく、それ以前の見本帳でも見つけることができます。欧字書体の FANTAIL をヒントに制作されたといわれます。フワンテル[fantail]とは 扇形の尾のことです。「フワンテル形」は「ゴシック形」の縦画を細めたスタイルです。装飾的な脚色はありますが、基本は「ゴシック形」からのヴァリエーションだと思われます。欧字書体においては装飾用の書体とされており、漢字書体もおそらくは装飾用として用いられるものと思われます。「フワンテル形」の完成された書体として、地図の標題用の書体として開発された「石井ファンテール」(1937年、株式会社写研)があげられます。
 日本製漢字書体『参號明朝活字総数見本』(1928 築地活版)  活字書体(試作)「紐育」

【参號羅篆形】

『参號明朝活字総数見本』(1928年 東京築地活版製造所)は、その名のとおり3号サイズの明朝活字の総数が掲載されていますが、「羅篆形」の見本も掲載されています。羅篆とはラテン(Latin)のことだと思われます。「羅篆形」は「ゴシック形」の横画を細めたスタイルです。装飾的な脚色はありますが、基本は「ゴシック形」からのヴァリエーションだと思われます。欧字書体のLATIN ANTIQUE をヒントに制作されたと思われます。「羅篆形」として制作されたものは見つけられませんが、「アポロA2」(1969年、株式会社モトヤ)がこれに近いと思われます。「アポロA2」は、もともとはタイプレス(印刷清刷用タイプライター)活字として発売されました。ちなみにアポロ [Apollo]はラテン語です。「羅篆形」として制作されたものは見つけられませんが、「アポロA2」(1969年、株式会社モトヤ)がこれに近いと思われます。「アポロA2」は、もともとはタイプレス(印刷清刷用タイプライター)活字として発売されました。ちなみにアポロ [Apollo]はラテン語です。vB「羅ワ箙ス形」として制作されたものは見つけられませんが、「アポロA2」(1969年、株式会社モトヤ)がこれに近いと思われます。「アポロA2」は、もともとはタイプレス(印刷清刷用タイプライター)活字として発売されました。ちなみにアポロ [Apollo]はラテン語です。
日本製漢字書体『参號明朝活字総数見本』(1928 築地活版)  活字書体(試作)「羅馬」

【五號丸ゴチック】

青山進行堂では、1916年(大正5年)3月に「篆書ゴシック体」を発表して注目を集めました。篆書体とゴシック体との出会いがあったのです。『活版総覧』(1933年、森川龍文堂活版製造所)には装飾用漢字書体として「篆書体」とともに「丸ゴチック体」が掲載されています。丸ゴシック体とは、欧字書体の ROUND GOTHIC をヒントにしたかどうかはわかりませんが、篆書体とゴシック体との出会いによって成立した書体だと思われます。丸ゴシック体はゴシック体と同じで、縦画、横画ともに、直線、曲線ともに同じ太さの線で構成されていますが、起筆と収筆は丸みを持っています。たんにゴシック体の角を丸くしたものではなく、転折部に丸みを持っていることが最大の特徴です。ゴシック体では直角に折り返す転折も、丸ゴシック体では角張らせないで丸みを持たせています。「口」の四隅すべてに丸みを持たせているので、ゴシック体とは筆順が大きく異なります。
日本製漢字書体『活版総覧』(1933 森川龍文堂)  活字書体(試作)「巴里」

第 11 回 呉竹体(黒体/ゴシック体)

呉竹体(黒体)は、わが国から中国へ逆輸入された数少ない書体のひとつです。中国でも呉竹体(黒体)は本文では使われていませんでした。せいぜい見出しに使われることがある程度だったようです。

【中国での黒体】

北京で印刷された『瞿秋白文集』は縦組み繁体字の書物で、見出しに呉竹体(黒体)が用いられています。瞿秋白(1899―1935)は中国の政治家・文学者です。江蘇省常州市の生まれで、現在その旧居が瞿秋白記念館になっています。1919年の五・四運動に参加しました。モスクワに新聞記者として滞在し、帰国後、中国共産党中央委員などを歴任しました。ロシア文学の翻訳や文芸評論で活躍しましたが、国民党軍に逮捕され銃殺されました。人民文学出版社は1951年3月に創業されて以来、8000種あまりの書物を出版しています。当代の文学作品のみならず、中国古典文学、世界の重要作家の作品を出版して、中国の読者に豊富で多彩な文学を紹介し、新しい文学の発展に寄与しています。
  中国での黒体『瞿秋白文集』(1953年 北京・人民文学出版社)   活字書体「端午」

第 12 回 新時代の漢字書体の展望

[日本発──ゴナの時代]

1970年代から1980年の間に、「ゴナ」(写研)、「ナウG」(リョービイマジクス)、「ロダン」(フォントワークス)、「新ゴ」(モリサワ)など、当時は新感覚とされた書体があいついで制作され、大きなトレンドとなりました。そのトレンドの先鞭をつけたのが「ゴナ」でした。ゴナは1975年に中村征宏氏によって制作されたゴナUがリリースされたことがはじまりでした。つづいて1979年にはゴナEも中村征宏氏により設計され、さらにはインターポレーション機能によって、1985年にファミリーとしての完成を見ました。杉村津留子著『天皇さま、御異常不奉拝』(小学館 1986)には、本文にゴナMがもちいられています。ちょうどゴナMが最高に華やかだった時代で、とうとう本文にもゴシック体が登場してきたのです。

[活字書体としての痩金体]

わが国では各メーカーがそれぞれの近代明朝体とゴシック体の開発に費やしている1990年代に、台湾では個性的な筆跡に着目した活字書体がうまれていました。「痩金体」です。活字書体の「痩金体」は、台湾の華康科技(ダイナラブ DynaLab)によって1996年に発売されました。もともとは北宋の徽宗(1082―1135)の個性的な楷書の書風の一つでしたが、これをベースに活字書体として再生したものです。徽宗は、中国・北宋第8代の皇帝(在位1100―25)ですが、政治力はなく国政は乱れたといわれます。反面、書画の名手として知られ、文化・芸術を保護奨励しました。その筆跡は、力強くしなやかな線でかかれたことから痩金体といわれ、徽宗自身も「痩金」と号しました。金の章宗(1168―1208)もこの書体に憧れ、模倣に努めたといわれます。また、「痩金体」に調和する和字書体を鈴木勉(1949―1998)が、欧字書体をマシュー・カーター(Matthew Carter 1937―)が担当したことでも注目を集めました。

[徐明と陸隷]

1970―1980年代の「ゴナ」に始まる日本発のコンテンポラリーな漢字書体と、1990年代の台湾発の書写をベースにした漢字書体。21世紀の漢字書体とは、どこへ向かうのでしょうか。その一例として、株式会社モリサワから発売されている「徐明」と「陸隷」を挙げておきます。徐学成氏の設計による「徐明」は、宋朝体・明朝体系統のオリジナル書体です。鋭く清冽な表情と、柔らかく明るく上品な雰囲気とを兼ね備えています。また、陸華平氏の設計による「陸隷」は、隷書体系統のオリジナル書体です。伝統の様式を基礎としながら、筆法・結法を整え、現代にふさわしい明るく端正な表情があります。