第 2 回 五体の成立から活字書体へ
【篆書体】
中国・秦代(前二二一―前二〇七)には、始皇帝(前二五九―前二一〇)が字体の統一を重要な政策として取り上げ、古文(甲骨文・金石文)を基礎として篆書を制定し、これを公式書体としました。この書体を小篆と呼び、それ以前の古体を大篆と呼んで区別しています。篆書(小篆)は隷書と同様に筆の鋒先を逆に入れて画の中央を走りますが、隷書と違うのは円形を描くようにする転折の筆法です。特徴的なのは左肩の転折で、宀の場合、篆書では第一画と第二画を連続させて書く。右肩は筆の方向を転換させて回すように書きます。中心を重視して、中心から左側へ、右側へと書いていきます。泰山刻石(前二一九年)とは現存する始皇七刻石のひとつです。現在、原石は泰安博物館において厳重に保存されています。拓本としては十字本、二十九字本、五十三字本、百六十五字本の四種類が伝わっています。
篆書体(石刻)『泰山刻石』 活字書体(試作)「泰山」★
【隷書体】
中国・漢代(前202―220)には篆書が衰え、実用に便利な隷書が勢力をえました。隷書は秦代には補助的につかわれていましたが、漢の公式書体となりました。西漢(前202―8)では古隷と八分がともにつかわれましたが、東漢(25―220)では八分が発達して全盛期をむかえました。173年(熹平4)に東漢の霊帝が今まで伝えられた経書の標準のテキストを定めたのが「熹平石経」です。その書風は点画の太細の変化も波法の強調はなく書法芸術としては表情に乏しい書とされるかもしれませんが、正確で読みやすい書風は活字書体のル―ツのひとつであると思われます。「熹平石経」は幾多の争乱にあって破壊され四散しました。その中の「儀礼」の一石がわが国の藤井斉成会有鄰館所蔵の残石です。藤井斉成会有鄰館は、紡績業で財をなした藤井家の所蔵品を公開する場として設立されました。創立者の藤井善助(1873―1941)は、中国の美術骨董品のコレクターとしても知られています。
隷書体(碑刻)『熹平石経』(173年) 活字書体「洛陽」
【行書体】
集王聖教序は、672年に碑刻され、長安(現在の西安)の弘福寺内に置かれました。いまは西安碑林にあります。三蔵法師玄奘の翻訳完成を記念して、僧・懐仁が当時伝わっていた王羲之の行書筆跡から一文字一文字集めて文をつくり、あたかも王羲之が書いたように配列したものです。字を集めてあるので、文字の大きさはばらつきがあり、やや気脈が通らないように見えますが、王羲之の行書の典範として中国書法史において至宝と言われます。太宗・李世民の序、高宗・李治による記、ならびに玄奘の翻訳になる般若心経から構成されています。
行書体(碑刻)『集王聖教序碑』(672年 西安碑林博物館蔵) 活字書体「聖世」
【草書体】
『説文解字』の序文には、文字の歴史を説いて「漢興りて草書あり」としるされています。この言葉を裏づけたのが木簡の「陽朔三年」(前四五年)で、全体が草書で書かれています。楷書、行書よりもはやくに、草書が広く一般化したことを裏付けています。晋朝においても簡書や帛書が多くもちいられており、紙がひろく一般にも使われるようになったのは南北朝以降のことでした。晋時代の簡書や帛書に書かれたのは、隷書から草書に変わっていきました。中国・唐代(六一八―九〇七)においても草書はますます発展しており、独草体から連綿体、狂草体を生んでいます。懐素(生没年不詳)は中国・唐代の書道家・僧で、「草聖」ともいわれています。帛に書かれた『草書千字文』は懐素の最晩年のものです。一字には一金の価値があるということから「千金帖」ともいわれます。
草書体(書写)『懐素草書千字文』(799年) 活字書体「詩草」★
【真書体】
西安碑林博物館の第一展示室には高さ2mの『開成石経』の石碑が114基あります。開成石経は唐の文宗皇帝・李昴が命じ、830年(大和4)から837年(開成2)までに艾居晦ら写字生によって真書で刻まれたものです。開成年間に完成したので開成石経と名付けられました。石経とは、十三種の儒教経典、周易、尚書、儀礼、詩経、周礼、礼記、春秋左氏伝、春秋公羊伝、春秋殻梁伝、論語、孝経、爾雅、孟子のことです。当時この石経は長安城務本坊の中に置かれ、国子監の学生と科挙の受験者の勉強にもちいられました。
真書体(碑刻)『開成石経』(837年 西安碑林博物館蔵) 活字書体「開成」
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[銘石体]
中国・晋代の墓誌にもちいられた隷書体をとくに「銘石体」といいます。銘石体の典型的な例が『王興之墓誌』(341)です。ここにあらわれた形象は、おそらくは刻による表現がすこし加えられているのかもしれませんが、現在のゴシック体にきわめて近い書風です。『王興之墓誌』は1965年に南京市郊外の象山で出土しました。王興之は王羲之の従兄弟にあたります。この墓誌銘の裏面には、王興之の妻であった宋和之そうわしの墓誌すなわち『王興之妻宋和之墓誌』(348)が刻まれています。この他にも、王氏一族の王〓之、王丹虎のふたりの墓誌が出土しており、いずれも『王興之墓誌』と同じ書風です。 〓=門がまえのなかに虫
隷書体(銘石体)「王興之墓誌」(341年) 活字書体「銘石」
[魏碑体]
魏晋南北朝とよばれる時代は、中国に仏教が広く伝播した時代でした。北魏でも漢民族の信仰している仏教を国教として採用しました。これにともない国内の仏教信仰が極めて盛んになり、多数の寺院や仏像が造営されることになりました。この動きに連動して生まれたのが、崖地に洞窟をうがって磨崖仏を彫り、石窟寺院を造営することでした。その場所として選ばれたのが洛陽の南にある龍門の崖地で、龍門石窟を造り上げることになったのです。磨崖仏には彫った動機や故人の冥福を祈る供養文、願い事を記した願文、そして年月や刻者の名前が文章として刻まれることがありました。これが「造像記」である。北魏真書体は、方筆の剛毅かつ雄渾な真書によるものですが、それぞれに特有の個性があり、その書風は千変万化です。書法芸術では、なぜか「六朝楷書」と呼んでいます。
真書体(魏碑体)「長楽王丘穆陵亮夫人尉遅造像記」(495年) 活字書体(試作)「造像」★
[経典体]
中国の印刷の初期において、仏教経典・儒教経典で用いられたのは荘厳で権威的なイメージのある肉太の真書体字様でした。とくに仏教経典の印刷は唐代から行われており、時代と地域を越えて、経典の形態、字様、版式に大きな変化はみられませんでした。わが国の「春日版」なども同様の字様であり、中国の仏教経典から覆刻を繰り返したものと思われます。
真書体(経典体)『大方廣佛華巖経』(990―994年 龍興寺) 活字書体「方廣」
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