筆法
「王興之墓誌」「宋和之墓誌」は東漢の隷書体から北魏の真書体への中間書体といわれています。躍法などには北魏の真書体の筆法がみられますし、掠法、磔法もシャープなところがあります。側法、啄法なども三角形をしており、隷書体にはないシャープな雰囲気になっています。このあたりもまた中間書体といわれている理由だろうと思われます。
起筆が蔵鋒であり、横画は互いに平行を保ち一定の間隔をたもち、豎画は垂直になっています。横画、豎画ともに同じくらいの太さになっています。波磔をおさえて朗々たる風格の筆法になっています。

結法
「王興之墓誌」「宋和之墓誌」には自由さがあります。筆法と同じく、結法も朴訥としているようです。横画の間隔を均一に保つという隷書の結法は受け継がれており、横画の少ない文字は必然的に扁平になり、横画の多い文字は縦長になっています。画数に応じた自然な結法になっていて、波磔がない分、自由さが目立っています。基本的に横画は水平、豎画は垂直になっているのですが、口などが下窄みになっています。

章法
 碁盤のように枠が引かれており、その枠内に一字ずつを書き入れており、この枠が活字書体でいうところのボディに相当するものと思われます。活字書体化にあたっては、それよりは大きめの字面に設定しました。


王興之(309-340)
王彬の子。
王羲之(307-365)の従兄弟にあたる。

原資料は『墓誌銘(一)』(蓑毛政雄編著 天来書院 2001年)、9-14ページに掲載されている「王興之墓誌」と「宋和之墓誌」の拓本です。この拓本をスキャンし、陰陽を反転して下図としました。このシリーズの特徴とされる骨格の線描きや、編著者による解説も参考にしました。
魏の武帝は205年に「立碑の禁」を出し、当時の厚葬の習慣を戒めました。立碑の禁」が出て以来、碑を立てることは少なくなりましたが、そのかわりに小さな「墓碑」を墓の中に埋めるという形式が行われるようになりました。東晋になると地中の「墓碑」はなくなり、碑における事跡の部分だけを石版に彫りつけて柩とともに埋める「墓誌銘」という形式が出現するようになりました。
中国・晋代の墓誌にもちいられた隷書体をとくに「銘石体」といいます。その典型的な例が『王興之墓誌』(341年)です。1965年に南京市郊外の象山で出土しました。石は縦28.5cm、横37.3cmという小さなものです。この裏面には、王興之の妻であった宋和之の墓誌すなわち『王興之妻宋和之墓誌』(348年)が刻まれています。夫の王興之の柩の右に合葬されているということです。この他にも、王氏一族のふたりの墓誌が出土しており、いずれも『王興之墓誌』と同じ書風です。

 


■ファミリー展開

『千駄木の漱石』(森まゆみ著、筑摩書房、2012年)

 

「王興之墓誌」「宋和之墓誌」の躍法・磔法では、北魏の真書への変化を思わせる筆法になっていますが、これは少しおさえて隷書の書き方に近くなるようにしました。
北魏の真書に向かう芽をおさえて、黒体(ゴシック体)との関連を意識させていくように解釈しました。三角形のような側法はできるだけ尊重しました。
この墓誌特有の字体になっているところもありますが、現在の一般の人々にとって違和感が生じると思われるものは変更するようにしました。

『もしもおいらが総理大臣だったら』(アーティクルナイン 著、青山ライフ出版、2014年)