ふでづかい
書方手本ということで、毛筆の特徴を生かした平明な筆遣いになっています。書写されたものがそのままあらわれているので、軽くて軟らかい印象を受けます。緩急——筆を速く運ぶところと、ゆっくりと運ぶところ——の差がはっきりとしています。それが極端に細くなっているところと、太さをしっかりと保っているところとにあらわれています。

まとめかた
冒頭のいろは四十八字は単体で書かれているので、当然ながら一字一字で完結しています。ひらがな、カタカナの字型は、「う」の縦長方形、「つ」の横長方形の差が極端です。

ならびかた
本文は、おもに漢字カタカナ交じり文です。ゆったりとしたレイアウトになっています。

内田晋斎(嘉一 1846-1899)
内田如球の子として上総国真名村(現在の千葉県茂原市真名)でうまれた。如球は真名村で漢方医として開業していたが、長崎・大村において蘭学をまなんだのち江戸本所(東京都墨田区)で医院を開業している。
 嘉一は1868年(慶応4年)閏4月15日に慶応義塾に入門した。そこで福沢諭吉の信頼を得て、諭吉の著書の版下を依頼されるようになった。
 1871年(明治4年)に文部省が設置されると、嘉一は文部省編輯寮の役人となる。
1883年(明治16年)には「かなのくわい」の結成に参加した。

復刻の資料としたのは国立国会図書館所蔵『啓蒙手習之文』(福沢諭吉編・内田晋斎書、慶応義塾出板、1871年)の電子複写物です。
『啓蒙手習之文』は、西洋諸書を意訳して通俗の文章を作り、それを習字の手本にしたものです。その序文に福沢諭吉の目的がのべられています。この書物の冒頭にはひらがなのいろは48字が1ページに2文字ずつ大きく書かれ、つぎにカタカナのイロハ48字が1ページにまとめて書かれていました。
 1871年(明治4年)の諭吉から嘉一あての執筆依頼状が残されています。そこには「実は先日より書家を求め見本を検査いたし候えども各々申し分これ有り何分にも意に適し申さず、相願い候」とあり、「文字はすべて分明を貴ぶべく、相成るたけシャレのなきよう、子供に分り候よう願い奉り候」という条件をしめしています。
 こうして『啓蒙手習之文』は、この年の初夏に刊行されました。嘉一の書は、諭吉が提唱する「文字は分明でありたい」という考えを実践したものです。


■組み見本

カタカナも、忠実にアウトラインをとることはせず、まずはその書風を把握することに心がけました。

漢字書体は、
 左:林佶
 中:熱河
 右:蛍雪

準備中

『字音假字用格』は漢字カタカナ交じり文なので、カタカナはだいたい揃えることができました。「ネ」「ヰ」「マ」がありませんでしたので、書風をつかんだ上で新たに書き起こしました。
 そのほかの文字で大きく形姿を整えたのはありません。全体的に統一感を醸しだすように筆づかいや形姿を整えていきました。
『字音假字用格』は漢字カタカナ交じり文なので、カタカナはだいたい揃えることができました。「ネ」「ヰ」「マ」がありませんでしたので、書風をつかんだ上で新たに書き起こしました。
 そのほかの文字で大きく形姿を整えたのはありません。全体的に統一感を醸しだすように筆づかいや形姿を整えていきました。

書方手本におけるいろは48字は文字を習うためのものであって、組み合わせることはまったく考えられていません。したがって一字一字がどれほどていねいに書かれていたとしても、それをそのまま活字として再生することはできません。
 この書体に関しては忠実にアウトラインをとることはせず、まずはその書風を把握することに心がけました。
 毛筆のもつ軟らかさのある筆致が特徴です。この特徴の違いを意識しながら活字書体としてまとめていきました。
 なお「し」には引き下ろしたスタイルになっていましたが、現在の文章においては違和感を覚えました。